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【視点】産経新聞論説委員・小林毅 事業仕分け異聞

2009/11/24

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 ■「あるべき心」は気持ち悪いか

 「赤穂浪士が評価されたのは芝居になった後で、それまではただの暴力集団としか見られなかったらしい」。電車の中で連れの人にこんな話を始めた初老の男性を見かけたことがある。相手が「へえ〜」と応じたことで、彼はその根拠らしきものを延々と語り続けた。

 「そんなことはないのだけど」と心の中で苦笑した。竹田出雲らによる「仮名手本忠臣蔵」の初演は浪士討ち入りから半世紀近くたってからだ。一方、討ち入り直後から、当時の著名な学者たちが、浪士を助命すべきか、罪人として処罰すべきかを激論している。「ただの乱暴者集団」とされていたならば、そんな議論が起きるはずがない。浪士人気を示すものはほかにいくらでもある。

 無論、作家が空によって想を構え、義挙を否定するのは自由だ。数ある忠臣蔵作品には、そうしたものもある。だが、それはあくまでも異本であり、正伝に代わるものにはなりえない。この男性はこのことが分からず、物事をひねくり回し、世評に異を唱えるのが知的だと思い込んでいたようだ。

                   ◇

 数年前のそんな経験を思いだしたのは、行政刷新会議の事業仕分けで「心のノート」という小中学生向け道徳教育用教材がやり玉に挙がったときだ。民主党政権の誕生とともに、その有力な支持団体である日教組が道徳教育に反対していることから、この事業の縮減は予想されたものの、報道された仕分け人の言葉には驚いた。

 「心のノートは『あるべき心』の見本市で、すごく気持ちが悪い」。斜に構えたタレントが紛れ込んで受け狙いでしゃべったのかと思ったら、れっきとした教育者である。正直あきれてしまった。

 道徳教材である以上、「心のノート」に「あるべき心」が満載されて当然だ。中学生版には「いじめ」を想定しているのか、「この学級に正義はあるか!」と問いかけ、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉で締める章もある。

 確かにこれは建前であり、きれいごとである。仕分け人氏は「そんな建前ばかりの本を子供に読ませてどうする」と言いたかったのだろう。

                   ◇

 数年前に、時代の寵児(ちょうじ)ともてはやされたIT経営者が「稼ぐが勝ち」「人の心はカネで買える」と著書で書いた。これを「本音で話している」と人々は喝采(かっさい)した。

 しかし、実は今どき、こんなセリフ、心のどこかでそう感じる瞬間があったとしても、口に出すのは恥ずかしい言葉を臆面(おくめん)もなく言い放つのは、それほど難しくない。「お金で買えないものもある」という方がよほど勇気がいる。

 「本音」が異様なくらいにもてはやされ、きれいごと、ストイック=禁欲的であることなどは極端に冷遇されている。それが、平成ニッポンの風景なのである。

                   ◇

 それだけに、教育者ならば、いや世間の荒波にもまれた経験のある大人ならば、そんな風潮に乗らずに、もう一歩踏み込んでほしかった。

 「あるべき心」や「きれいごと」だけで通用しないことなど、ひとたび社会に出ればいやでも分かる。だからこそ、そんな手あかにまみれる前の子供時代にしっかり学んでおかなければならない。

 実際、苦境に立ったときに「あるべき心」「きれいごと」が、ポキリと折れてしまいそうになる心をぎりぎりで支えてくれるのもまた事実なのだ。理不尽な社会と、したたかに、ずぶとく対峙(たいじ)する武器になるのである。

 早い話が、赤穂浪士が、ただの乱暴者集団であり、仕官のときにプラスになるとか、鬱憤(うっぷん)晴らしとかいった現代人の好きな「本音」の人々ばかりだったら、松の廊下から討ち入りまで1年9カ月間、耐えられたはずはない。「建前」「あるべき心」「きれいごと」の重みに気づかない者は、正伝なんぞは面白くないと、異本ばかり読んで通人を気取るのと変わらない。

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